2016年6月27日月曜日

あみださんはほっとかない 



♪あみださんはほっとかない
♪ほっとか ほっとか ほっとかない
♪ほとけさんとはいうけれど
♪ほっとか ほっとかない

寺で僧侶が教えを述べ極楽などについて語り、聴衆はそれを聞いて頷いている風景はそんなに悪いものではない。
真理のように聞こえるそれは、耳に心地よく、ある種の安堵感を持ってそれを楽しめるものだ。

単に知識を得ようとするのなら、自分の持って居る既成概念をさらに強固にし、その中の充足感を楽しむということならそれで充分なのだろう。
だがしかし、それは心の深いところで求め続けている真理への道を閉ざすことになってしまうことにもなるのだ。

知識を得るということは、どこか他人事のようにそれを聴く。自分というエゴが犯される心配が無いので、「良い話」として受け入れ感心もする。
煩悩まみれの自我も意識されることが殆どないのでエゴにとっては居心地の良いことだろう。

だが、聴く者が本当に道を求め、自らの本性を見つけ出し、真理の謎を追究したいと真に望むのなら、これとは大いに質の違う謙虚で真摯な姿勢が必要となる。
先入観や既に持っている知識を脇に置き、虚心坦懐な姿勢でことに臨むことは大切なことのひとつだ。

それさえあれば、どこで何を聴いても、たとえ自然の中で鳥の声や風の音を聴いても、そのものたちの仏性の響きまでをも聴き、真理への旅路を進めることができる。

何を見て何を聴くかという問題ではない。受け取る側の質の問題である。
大いに関係するのが、探求者の“真理を求める心”の強さだろう。

求める者が大いなる渇望と共に真に“それ”を乞い願い、希求する時、宇宙の必然として人知を超えた神秘が働く。
そして必要なものや事柄は向こうからやってくることになる。
それは道を智る人かも知れないし、本かも知れない。或いは美しい景色や風の囁きかも知れない。赤ん坊の泣き声や鳥の囀り・・等々。
ありとあらゆるものたちが、求める者に真理を指し示すことだろう。すべて目の前に展開される事象が導師となるのだ。

だが、自らの存在に深く分け入って、生死の神秘を見つけ出し、自由無碍な境地に入っていこうとするには、並々ならぬ覚悟が求められる。
探求者自らが発意決心し、自らの足でその道に入っていかねばならない。
勿論、この決心という行為も“阿弥陀の計らい”故のことではあるのだが、それを話し始めるとかなりの長文になってしまうので、他の機会に譲ることにする。

すっかり自分自身そのものであると思っていた自我(エゴ)は、旅が進むにつれて段々とその存在感が希薄になってゆく。そして最後にその自我は単なる“機能”もしくは“システム”だったという理解が訪れることになる。

本当の吾はこのシステムを観ている古来より“空”と呼ばれてきたものだという了解が生まれ、途轍もない歓喜と共に自由無碍な境地へと解放が起こるのだ。

しかし、その旅の途上では、自我(エゴ)に光が当てられ、自らの内にある怒り、悲しみ、嫉妬、強欲、恨み、嫉み等々の煩悩達が露わにされることになる。
念仏他力門の仏教が言う「弥陀の光に照らされる」というのは正にこの事を指す。

時として痛みが伴うこの出来事からエゴは自らを守ろうとする。旅を始める前の場所へ、揺るぎない地位を確保されていた所へ逃げ帰ろうと試みることもある。

しかし存在は、阿弥陀は放ってはおかない。ありとあらゆる“計らい”を駆使してその旅に連れ戻そうとする。
容赦ない存在の光、弥陀の光は何時でも何処でも照らし続けて、探求者に生死の問題を解決させ、煩悩渦巻く輪廻の苦闘から脱出をさせようと一心に働いてくれるのだ。

弥陀の光に照らされ、露わになった煩悩達。それは自分ではなく、本当の自分は光を照らしている側の仏そのものなのだという了解、無上の躍り上がるような喜びを吾々に味わわせようと四六時中、働きかけているのだ。

阿弥陀の大慈悲とはまさにこのことである。
何処までも何処までも追いかけて、あらゆるものに姿を変え悟りに至らしめようとする働き。
真理の境地へと導く無限の光、それが弥陀の大慈悲と言われるものだ。

♪あみださんはほっとかない
♪ほっとか ほっとか ほっとかない
♪ほとけさんとはいうけれど
♪ほっとか ほっとかない
♪隠れてみても ほっとかない
♪いくら逃げても ほっとかない
♪嫌だと言っても ほっとかない
♪ほっておいて欲しい時もある
♪だけど そんなことはお構いなしに
♪ほっとか ほっとかない


「あみださんはほっとかない」
 Lyric by DAIJO