8/22/2016

「信じること」とは?


今年もお盆が終わりました。
法要の時に参拝者にお配りした法話を少し編集して掲載いたします。


“信じる”と“信頼”は同じ意味?
         
この夏、ブラジルでオリンピックが行われました。
テレビで中継を見ていると試合前、応援する日本人にインタビューしている様子が時折テレビで放映されます。
「日本は勝つと思いますか?」という質問をされると、「はい、もちろん絶対に勝つと信じています!」と言います。

勝利を信じている・・。この場合の「信じている」という意味は、心に誓って勝つと“信じて”いるということでしょう。
負けるかも知れないという疑いを振り払って、力尽くで勝利を願い、懸命に信じているというわけです。
心の底から信じて疑わないというのではなく、努力して疑いを振り払い、信じ込もうとしているというわけです。
この光景は、我々が何気なく使っている“信じる”という言葉とその意味を実に象徴しているような気がするのです。

例えば、念仏を唱えると極楽浄土に生まれることができると阿弥陀さんは言っている・・と浄土真宗では言います。
「これはありがたいことですね、さあ皆さん信じましょう・・。でも完全に信じて念仏しないとダメなんです。少しでも疑ったら効果はありません。みんな悪業を持ってますから地獄へ行ってしまうかもしれません。ですから“頑張って”信じましょう。」
と勧められて、多くの場合は「はい承知しました、私は信じます。」という人は少ないと思います。
勿論、中には素直な人がいて「私は信じます。」と言う方もいるかも知れませんが、その場合でも心の底から阿弥陀仏の言葉を受け入れ信頼しているのかというと些か疑問が残ります。

そこには、心や思考の努力があるだろうことは容易に想像がつきます。その言葉を完全に受け入れ、何の無理もなく、完璧な信頼がそこにあって、湧き出る喜びと共に感謝の念に浸って充足しているということには中々いかないのではないでしょうか。
勿論、天性の宗教的感覚に優れている純粋なハートの持ち主もいるのでしょうが、それは極めて希なことでしょう。
教育や科学技術によって、情報知識を詰め込まれた現代人は、信頼するという質を著しく欠いてきてしまったようです。

頭、脳味噌が主体の生活です。
思考を主体とした頭は、情報データを基にした“証明”が必要なシステムなので、社会生活を送るに当たっては、優秀な能力を発揮してくれるとても便利なものです。
しかし、その反面、蓄積されたデータに一致しないもの、未知の事柄をストレートに受け入れるということは苦手としています。
体験や教え込まれた知識を基にして未来を予測することは得意ですが、未知のこと、特に宗教的な質である「信頼」「受け入れる」ということに関しては、いささか不得意であるという性質があります。

従って、特に頭主体で生きている現代人にとって、信じなさいと言われて、はい分かりました信じましょうということは多くの場合、嘘を伴うことになります。
頭では信じなければならないという思考が作られ、それを実行しようとする努力というものが生まれます。
ガンバって信じようとする時、自分自身に信じることを強要するという図式がそこにあります。
それはハートからの、心底からの信頼、幼子が親を無条件に信頼しているような心の質ではあり得ないということは明白なことだと言えるでしょう。

教えを信じなさいと言われ、はい、分かりました、信じますということ。これを正確に言うと、はい、分かりました、信じるように努力しますということです。
“信じる”というのは、努力して信じるということです。
頑張って無理をしてでも“信じる”ということになります。多少の疑いがあっても信じるということを強いるのです。
要するに自分自身に嘘を強制し、自分は信じているのだということを何とかして作り上げようとするということになってしまいます。

その努力を続け、疑念を潜在意識の闇に押し込め、ほぼ完全に封印することに成功すると、「自分は信じている」という思い込みが心を支配することにもなっていきます。
そして奮闘努力の果て、自分は信じているということを信じ込んでいる思考(マインド)を完成させるということになる。

今や「私は信じている。」のです。今や信心を獲得したのだと“信じている”ということです。
自分自身で作り出した“夢”の中でそう思い込んでしまったのです。
残念ながら、これは本来の“信”ということとは大きく質の違った、似て非なるものであり、虚仮、或いは虚偽のものだと言えるでしょう。

喜びに満ちて、それを体験し理解した暁に信頼の境地に達したということとは全く別の次元の話です。
今や心の奥底に押し込め、見えないようにしてしまった疑念は、深いところからその波動を送り続けているかもしれません。
表面を取り繕ってはいるものの、心底にある未解決の“疑い”は、全面的な歓喜をその人に許してはくれないでしょう。
人工的に作りあげた“私は信じている”という信念は、あまり役に立たないどころか、純粋な“信”を得ようとする旅にとっては、かえって大きな邪魔にもなってしまう性質のものです。

永遠の真理を得る・・そこには“丸ごと”の理解というものが必要不可欠となります。
実感や体験という、外からの情報を基にした思考、頭のみの情報処理、単なる知識ではないものが必要です。
切なる真理を希求する思い、いわゆる「菩提心」というものを基にした念仏や瞑想の実践、実体験を通しての「味わい」が本当の“信”、“信頼”という阿弥陀仏からの贈り物を私たちのハートの奥底まで届けてくれることになるでしょう。

生まれながらに携えている仏性を思い起こした時、「吾は永遠なり」という理解と共に大いなる安らぎを得ることになるでしょう。

仏性は今ここに在り続けています。
吾々が気付いているか否かに関わらず、まさに今この瞬間、法悦はすでに私たちの内側で歌い踊っています。

合掌 なむあみだぶつ