2018年1月8日月曜日

お経「三奉請(さんぶじょう)」のビデオ作りました


長徳寺の殆どの法要に於いて冒頭に読経される「三奉請(さんぶじょう)」。
プログレッシブロック風にアレンジしてYouTubeにアップしました。
花や自然の写真と一緒にお楽しみ下さい。 合掌

2018年1月4日木曜日

慶春 短歌三首

あけましておめでとございます



光陰は
巡り春の日
また来たり
常に眺る
吾は変わらず

弥陀の賀詞
正月限定さに非ず
永遠のめでたさ
誘う春かな

弥陀の賀詞
正月限定さに非ず
年中永遠に
届く慈悲かな



2017年8月22日火曜日

盂蘭盆会法要17「救いとは」












写真は8月15日夜7時から本堂で修行された「御満座横笛法要」の様子です。
(撮影:Prem Niket)

以下の文章は、平成29年度、長徳寺盂蘭盆会法要に参拝頂いた方々にお配りしたプリントの内容を編集し掲載いたしました。

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「救いとは」
「救い」という言葉。百科事典には、「超自然的な存在や力もしくは自己の精進努力によって、生理的な病や心理的な苦痛から脱却すること。」と書かれています。
肉体的もしくは精神的な苦境を脱して健全な状態を得る事とも言えるでしょう。

それでは仏教で言うところの救いとは何か。救いと言うからには何か救われなければならない不幸のようなもの、事象があるはずです。
現実世界を体験してゆく中での不幸・・、病気であったり、貧困であったり、仕事や対人関係の軋轢、戦争や災害等々、枚挙に暇が無いくらい、余りにも多くの事柄を挙げることができるでしょう。

そして、これら「不幸たち」に対して我々はそれをコントロールする術を持たず、幸せでありたいという私たちの願いを無視するように「不幸たち」はある瞬間突然に情け容赦なく降りかかってきます。

現世利益を説く宗教はこれらの不幸達を軽減もしくは無害化するべく、何らかの方法を教えますが、未だこの不幸達を見事に消滅させたという結果を私たちは見るに至っていません。
勿論、一時的に奇跡のような事例は希に起こることもあるかも知れませんが、永続的にこれらの不幸が消えて無くなったということは未だ起こっていないというのは誰の目にも明らかです。

一方、科学の世界に目を向けても、その道は未だ半ばであり、人類の不幸を皆無にするということは夢のまた夢ですし、むしろ人間の内面に於いて人類奉仕に欠かせない愛とか慈悲といった心が著しく不足しているということもあり、返って人間生活にとって危険な状況を作ってしまっているというのが現状です。

仏陀はこの世(現世、娑婆)を「苦の世界」として捉え、生老病死は避けられないものであると明らかに観て、この変転する「苦の世界」を超えた絶対永遠の何かを探し求め、修行の旅の最終地点でそれを発見しました。

それは自らの本当の姿を思い起こすことでした。それは「仏性」と呼ばれる私たちの本性であり、まさに永遠なるものでした。生まれては消えてゆく儚いものであるこの肉体や精神は、その仏性に属する便利な道具であり、自分自身そのものではないという真理を理解するに至ったのでした。

自分は生まれたこともなく死んだこともないという単純な事実、自分は永遠なるものだという文字通りの「自覚」を得たのでした。

そのサトリの眼に写しだされた娑婆世界(現世)は、生まれては消えてゆく一時的で儚く、移ろいでゆく諸行無常の世界でした。
肉体や精神、そしてその周りで起こり続ける現象は、スクリーンに映し出されたドラマのようなものであり、夢のようなものなのだということをつぶさに観ることを得たのです。

心は安楽で満たされ究極の歓喜を味わい、遙かに苦の世界を超え、まさに崩れざる永遠なる大安心、サトリの境地に安住したと言われています。

仏教では自らの本性を忘れ去って眠りこけ、悪夢を見ている状態を煩悩具足と言います。それは不安定で不確かな、一筋の光も届かない漆黒の闇に住んでいるようであると表現します。

その暗がりのような眠りの状態から目覚め、一度たりとも離れたことのない浄土、絶対の安心世界を思い起こす。長きに渡る夢から覚め、本当の自分を思い出すこと、眠りの中で忘れてしまっていた永遠の存在である吾を認識し、生まれ親しんだ家に帰り着く・・
これを仏教では「救い」と言い、サトリを得るとも言います。

この本来の自分を思い起こさない限り、夢のようなこの世界で一時的な幸福や快楽を得ることは出来るかも知れませんが、次の瞬間に訪れるかもしれない予期せぬ不快な出来事に翻弄され、振り回されることは避けられないでしょう。
善悪、幸不幸は同じコインの裏表、登りがあれば下りもある。人生あざなえる縄の如し等と古来から人々は真理の側面を言い伝えてきました。善悪、好悪に翻弄される世界から、絶対的安心の世界へ・・これが仏教で言うところの救いということになります。

肉体は死すべきものであり、儚いもの。しかし、「本当の吾」は永遠不滅なものです。この理解は、私たちの人生をより軽快に、より遊び心に満ちた明るく幸せなものに変容させる魔法と言えるかも知れません。

私たちがいつも称える南無阿弥陀仏・・永遠絶対なる自分を思い起こさせてもらいたいという心底からの願いを表した言葉です。
念仏を唱えると極楽浄土へお参りできるという本当の意味は、まさにこの大安心であるサトリの世界、究極の救いの世界に住むことが出来るのだという意味なのです。

迷い苦しむのは欲に満たされた「心」です。こうなりたい、ああなりたい、こうなるべき、ああなるべき・・という閉ざされた思い込みから出てくる「欲」が迷いであり、あらゆる不幸の元です。
「心」が迷っているのです。それから離れることができれば、「本当の吾」が今此処にいることが明白になることでしょう。それは「生まれたこともなく死んだこともない永遠なる生命」。まさに本当の自分です。

合掌 
なむあみだぶつ






2017年1月1日日曜日

慶春

新玉は
常に生まれて
流れゆく
本然まこと
めでたき春よ


正月会法要は1月2日、3日
午前10時と午後2時にお勤めされます。


2016年8月22日月曜日

「信じること」とは?


今年もお盆が終わりました。
法要の時に参拝者にお配りした法話を少し編集して掲載いたします。


“信じる”と“信頼”は同じ意味?
         
この夏、ブラジルでオリンピックが行われました。
テレビで中継を見ていると試合前、応援する日本人にインタビューしている様子が時折テレビで放映されます。
「日本は勝つと思いますか?」という質問をされると、「はい、もちろん絶対に勝つと信じています!」と言います。

勝利を信じている・・。この場合の「信じている」という意味は、心に誓って勝つと“信じて”いるということでしょう。
負けるかも知れないという疑いを振り払って、力尽くで勝利を願い、懸命に信じているというわけです。
心の底から信じて疑わないというのではなく、努力して疑いを振り払い、信じ込もうとしているというわけです。
この光景は、我々が何気なく使っている“信じる”という言葉とその意味を実に象徴しているような気がするのです。

例えば、念仏を唱えると極楽浄土に生まれることができると阿弥陀さんは言っている・・と浄土真宗では言います。
「これはありがたいことですね、さあ皆さん信じましょう・・。でも完全に信じて念仏しないとダメなんです。少しでも疑ったら効果はありません。みんな悪業を持ってますから地獄へ行ってしまうかもしれません。ですから“頑張って”信じましょう。」
と勧められて、多くの場合は「はい承知しました、私は信じます。」という人は少ないと思います。
勿論、中には素直な人がいて「私は信じます。」と言う方もいるかも知れませんが、その場合でも心の底から阿弥陀仏の言葉を受け入れ信頼しているのかというと些か疑問が残ります。

そこには、心や思考の努力があるだろうことは容易に想像がつきます。その言葉を完全に受け入れ、何の無理もなく、完璧な信頼がそこにあって、湧き出る喜びと共に感謝の念に浸って充足しているということには中々いかないのではないでしょうか。
勿論、天性の宗教的感覚に優れている純粋なハートの持ち主もいるのでしょうが、それは極めて希なことでしょう。
教育や科学技術によって、情報知識を詰め込まれた現代人は、信頼するという質を著しく欠いてきてしまったようです。

頭、脳味噌が主体の生活です。
思考を主体とした頭は、情報データを基にした“証明”が必要なシステムなので、社会生活を送るに当たっては、優秀な能力を発揮してくれるとても便利なものです。
しかし、その反面、蓄積されたデータに一致しないもの、未知の事柄をストレートに受け入れるということは苦手としています。
体験や教え込まれた知識を基にして未来を予測することは得意ですが、未知のこと、特に宗教的な質である「信頼」「受け入れる」ということに関しては、いささか不得意であるという性質があります。

従って、特に頭主体で生きている現代人にとって、信じなさいと言われて、はい分かりました信じましょうということは多くの場合、嘘を伴うことになります。
頭では信じなければならないという思考が作られ、それを実行しようとする努力というものが生まれます。
ガンバって信じようとする時、自分自身に信じることを強要するという図式がそこにあります。
それはハートからの、心底からの信頼、幼子が親を無条件に信頼しているような心の質ではあり得ないということは明白なことだと言えるでしょう。

教えを信じなさいと言われ、はい、分かりました、信じますということ。これを正確に言うと、はい、分かりました、信じるように努力しますということです。
“信じる”というのは、努力して信じるということです。
頑張って無理をしてでも“信じる”ということになります。多少の疑いがあっても信じるということを強いるのです。
要するに自分自身に嘘を強制し、自分は信じているのだということを何とかして作り上げようとするということになってしまいます。

その努力を続け、疑念を潜在意識の闇に押し込め、ほぼ完全に封印することに成功すると、「自分は信じている」という思い込みが心を支配することにもなっていきます。
そして奮闘努力の果て、自分は信じているということを信じ込んでいる思考(マインド)を完成させるということになる。

今や「私は信じている。」のです。今や信心を獲得したのだと“信じている”ということです。
自分自身で作り出した“夢”の中でそう思い込んでしまったのです。
残念ながら、これは本来の“信”ということとは大きく質の違った、似て非なるものであり、虚仮、或いは虚偽のものだと言えるでしょう。

喜びに満ちて、それを体験し理解した暁に信頼の境地に達したということとは全く別の次元の話です。
今や心の奥底に押し込め、見えないようにしてしまった疑念は、深いところからその波動を送り続けているかもしれません。
表面を取り繕ってはいるものの、心底にある未解決の“疑い”は、全面的な歓喜をその人に許してはくれないでしょう。
人工的に作りあげた“私は信じている”という信念は、あまり役に立たないどころか、純粋な“信”を得ようとする旅にとっては、かえって大きな邪魔にもなってしまう性質のものです。

永遠の真理を得る・・そこには“丸ごと”の理解というものが必要不可欠となります。
実感や体験という、外からの情報を基にした思考、頭のみの情報処理、単なる知識ではないものが必要です。
切なる真理を希求する思い、いわゆる「菩提心」というものを基にした念仏や瞑想の実践、実体験を通しての「味わい」が本当の“信”、“信頼”という阿弥陀仏からの贈り物を私たちのハートの奥底まで届けてくれることになるでしょう。

生まれながらに携えている仏性を思い起こした時、「吾は永遠なり」という理解と共に大いなる安らぎを得ることになるでしょう。

仏性は今ここに在り続けています。
吾々が気付いているか否かに関わらず、まさに今この瞬間、法悦はすでに私たちの内側で歌い踊っています。

合掌 なむあみだぶつ





2016年8月8日月曜日

おみがきご奉仕


お盆に先がけ、本堂の仏具を磨く「おみがき」です。
年四回の法要の前に、寺の婦人部と世話人さんが境内の清掃と仏具のおみがきご奉仕をしてくれます。

今年も良い盂蘭盆会の法要が迎えられそうです。

なんまんだぶ

2016年6月27日月曜日

あみださんはほっとかない 



♪あみださんはほっとかない
♪ほっとか ほっとか ほっとかない
♪ほとけさんとはいうけれど
♪ほっとか ほっとかない

寺で僧侶が教えを述べ極楽などについて語り、聴衆はそれを聞いて頷いている風景はそんなに悪いものではない。
真理のように聞こえるそれは、耳に心地よく、ある種の安堵感を持ってそれを楽しめるものだ。

単に知識を得ようとするのなら、自分の持って居る既成概念をさらに強固にし、その中の充足感を楽しむということならそれで充分なのだろう。
だがしかし、それは心の深いところで求め続けている真理への道を閉ざすことになってしまうことにもなるのだ。

知識を得るということは、どこか他人事のようにそれを聴く。自分というエゴが犯される心配が無いので、「良い話」として受け入れ感心もする。
煩悩まみれの自我も意識されることが殆どないのでエゴにとっては居心地の良いことだろう。

だが、聴く者が本当に道を求め、自らの本性を見つけ出し、真理の謎を追究したいと真に望むのなら、これとは大いに質の違う謙虚で真摯な姿勢が必要となる。
先入観や既に持っている知識を脇に置き、虚心坦懐な姿勢でことに臨むことは大切なことのひとつだ。

それさえあれば、どこで何を聴いても、たとえ自然の中で鳥の声や風の音を聴いても、そのものたちの仏性の響きまでをも聴き、真理への旅路を進めることができる。

何を見て何を聴くかという問題ではない。受け取る側の質の問題である。
大いに関係するのが、探求者の“真理を求める心”の強さだろう。

求める者が大いなる渇望と共に真に“それ”を乞い願い、希求する時、宇宙の必然として人知を超えた神秘が働く。
そして必要なものや事柄は向こうからやってくることになる。
それは道を智る人かも知れないし、本かも知れない。或いは美しい景色や風の囁きかも知れない。赤ん坊の泣き声や鳥の囀り・・等々。
ありとあらゆるものたちが、求める者に真理を指し示すことだろう。すべて目の前に展開される事象が導師となるのだ。

だが、自らの存在に深く分け入って、生死の神秘を見つけ出し、自由無碍な境地に入っていこうとするには、並々ならぬ覚悟が求められる。
探求者自らが発意決心し、自らの足でその道に入っていかねばならない。
勿論、この決心という行為も“阿弥陀の計らい”故のことではあるのだが、それを話し始めるとかなりの長文になってしまうので、他の機会に譲ることにする。

すっかり自分自身そのものであると思っていた自我(エゴ)は、旅が進むにつれて段々とその存在感が希薄になってゆく。そして最後にその自我は単なる“機能”もしくは“システム”だったという理解が訪れることになる。

本当の吾はこのシステムを観ている古来より“空”と呼ばれてきたものだという了解が生まれ、途轍もない歓喜と共に自由無碍な境地へと解放が起こるのだ。

しかし、その旅の途上では、自我(エゴ)に光が当てられ、自らの内にある怒り、悲しみ、嫉妬、強欲、恨み、嫉み等々の煩悩達が露わにされることになる。
念仏他力門の仏教が言う「弥陀の光に照らされる」というのは正にこの事を指す。

時として痛みが伴うこの出来事からエゴは自らを守ろうとする。旅を始める前の場所へ、揺るぎない地位を確保されていた所へ逃げ帰ろうと試みることもある。

しかし存在は、阿弥陀は放ってはおかない。ありとあらゆる“計らい”を駆使してその旅に連れ戻そうとする。
容赦ない存在の光、弥陀の光は何時でも何処でも照らし続けて、探求者に生死の問題を解決させ、煩悩渦巻く輪廻の苦闘から脱出をさせようと一心に働いてくれるのだ。

弥陀の光に照らされ、露わになった煩悩達。それは自分ではなく、本当の自分は光を照らしている側の仏そのものなのだという了解、無上の躍り上がるような喜びを吾々に味わわせようと四六時中、働きかけているのだ。

阿弥陀の大慈悲とはまさにこのことである。
何処までも何処までも追いかけて、あらゆるものに姿を変え悟りに至らしめようとする働き。
真理の境地へと導く無限の光、それが弥陀の大慈悲と言われるものだ。

♪あみださんはほっとかない
♪ほっとか ほっとか ほっとかない
♪ほとけさんとはいうけれど
♪ほっとか ほっとかない
♪隠れてみても ほっとかない
♪いくら逃げても ほっとかない
♪嫌だと言っても ほっとかない
♪ほっておいて欲しい時もある
♪だけど そんなことはお構いなしに
♪ほっとか ほっとかない


「あみださんはほっとかない」
 Lyric by DAIJO