2017年8月22日火曜日

盂蘭盆会法要17「救いとは」












写真は8月15日夜7時から本堂で修行された「御満座横笛法要」の様子です。
(撮影:Prem Niket)

以下の文章は、平成29年度、長徳寺盂蘭盆会法要に参拝頂いた方々にお配りしたプリントの内容を編集し掲載いたしました。

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「救いとは」
「救い」という言葉。百科事典には、「超自然的な存在や力もしくは自己の精進努力によって、生理的な病や心理的な苦痛から脱却すること。」と書かれています。
肉体的もしくは精神的な苦境を脱して健全な状態を得る事とも言えるでしょう。

それでは仏教で言うところの救いとは何か。救いと言うからには何か救われなければならない不幸のようなもの、事象があるはずです。
現実世界を体験してゆく中での不幸・・、病気であったり、貧困であったり、仕事や対人関係の軋轢、戦争や災害等々、枚挙に暇が無いくらい、余りにも多くの事柄を挙げることができるでしょう。

そして、これら「不幸たち」に対して我々はそれをコントロールする術を持たず、幸せでありたいという私たちの願いを無視するように「不幸たち」はある瞬間突然に情け容赦なく降りかかってきます。

現世利益を説く宗教はこれらの不幸達を軽減もしくは無害化するべく、何らかの方法を教えますが、未だこの不幸達を見事に消滅させたという結果を私たちは見るに至っていません。
勿論、一時的に奇跡のような事例は希に起こることもあるかも知れませんが、永続的にこれらの不幸が消えて無くなったということは未だ起こっていないというのは誰の目にも明らかです。

一方、科学の世界に目を向けても、その道は未だ半ばであり、人類の不幸を皆無にするということは夢のまた夢ですし、むしろ人間の内面に於いて人類奉仕に欠かせない愛とか慈悲といった心が著しく不足しているということもあり、返って人間生活にとって危険な状況を作ってしまっているというのが現状です。

仏陀はこの世(現世、娑婆)を「苦の世界」として捉え、生老病死は避けられないものであると明らかに観て、この変転する「苦の世界」を超えた絶対永遠の何かを探し求め、修行の旅の最終地点でそれを発見しました。

それは自らの本当の姿を思い起こすことでした。それは「仏性」と呼ばれる私たちの本性であり、まさに永遠なるものでした。生まれては消えてゆく儚いものであるこの肉体や精神は、その仏性に属する便利な道具であり、自分自身そのものではないという真理を理解するに至ったのでした。

自分は生まれたこともなく死んだこともないという単純な事実、自分は永遠なるものだという文字通りの「自覚」を得たのでした。

そのサトリの眼に写しだされた娑婆世界(現世)は、生まれては消えてゆく一時的で儚く、移ろいでゆく諸行無常の世界でした。
肉体や精神、そしてその周りで起こり続ける現象は、スクリーンに映し出されたドラマのようなものであり、夢のようなものなのだということをつぶさに観ることを得たのです。

心は安楽で満たされ究極の歓喜を味わい、遙かに苦の世界を超え、まさに崩れざる永遠なる大安心、サトリの境地に安住したと言われています。

仏教では自らの本性を忘れ去って眠りこけ、悪夢を見ている状態を煩悩具足と言います。それは不安定で不確かな、一筋の光も届かない漆黒の闇に住んでいるようであると表現します。

その暗がりのような眠りの状態から目覚め、一度たりとも離れたことのない浄土、絶対の安心世界を思い起こす。長きに渡る夢から覚め、本当の自分を思い出すこと、眠りの中で忘れてしまっていた永遠の存在である吾を認識し、生まれ親しんだ家に帰り着く・・
これを仏教では「救い」と言い、サトリを得るとも言います。

この本来の自分を思い起こさない限り、夢のようなこの世界で一時的な幸福や快楽を得ることは出来るかも知れませんが、次の瞬間に訪れるかもしれない予期せぬ不快な出来事に翻弄され、振り回されることは避けられないでしょう。
善悪、幸不幸は同じコインの裏表、登りがあれば下りもある。人生あざなえる縄の如し等と古来から人々は真理の側面を言い伝えてきました。善悪、好悪に翻弄される世界から、絶対的安心の世界へ・・これが仏教で言うところの救いということになります。

肉体は死すべきものであり、儚いもの。しかし、「本当の吾」は永遠不滅なものです。この理解は、私たちの人生をより軽快に、より遊び心に満ちた明るく幸せなものに変容させる魔法と言えるかも知れません。

私たちがいつも称える南無阿弥陀仏・・永遠絶対なる自分を思い起こさせてもらいたいという心底からの願いを表した言葉です。
念仏を唱えると極楽浄土へお参りできるという本当の意味は、まさにこの大安心であるサトリの世界、究極の救いの世界に住むことが出来るのだという意味なのです。

迷い苦しむのは欲に満たされた「心」です。こうなりたい、ああなりたい、こうなるべき、ああなるべき・・という閉ざされた思い込みから出てくる「欲」が迷いであり、あらゆる不幸の元です。
「心」が迷っているのです。それから離れることができれば、「本当の吾」が今此処にいることが明白になることでしょう。それは「生まれたこともなく死んだこともない永遠なる生命」。まさに本当の自分です。

合掌 
なむあみだぶつ