盂蘭盆会に寄せて・・
今年は皆様ご承知の通り、東日本大震災があり、多くの犠牲者が出ました。ここに哀悼の誠を捧げたいと存じます。また、被災地の方々、今現在も震災の爪痕にご苦労されている実情、衷心よりお見舞い申し上げます。
お亡くなりになられた多くの方々へのご回向も含め、お盆のお勤めをさせて頂きたいと思う次第でございます。
今回の震災は、地震、津波だけに止まらず原子力発電所の爆発による大規模な放射能汚染の問題があり、今なお日本全国民の心配事となっております。
それに加え、先日の台風や異常気象による極端な豪雨など・・吾々の住んでいる地球環境は益々不安定になってきています。
こうしたことに直面せざるを得ない時、私たち人間の無力さを大いに感じます。
吾々の住むこの地球、宇宙は正に人知の及ばない、コントロールのできないものであるという事実、現実が露わにされたという事が言えるでしょう。
「未来が見えない、これからどうなるのか」といった声を新聞テレビでよく見聞きします。
・・大きな不安がこの日本全体を覆っていると言えるかもしれません。
しかしここで落ち着いてこの事実を観察してみると、ひとつのことが良く見えてきます。
仏法の観点から少しお話しさせて頂きたいと思います。
「未来が見えない」と先行きの不安がありますが・・さあ、果たしてこの震災に遭う以前、私たちには未来が見えていたのでしょうか・・?
放射能汚染が無かった時、私たちは未来が見えていたのでしょうか?
また、その以前、景気が落ち込んで不況続きだった時、未来は見えていたのでしょうか?
またまた、そのずっと前、好景気が続いていた頃、私たちは確かに未来を見ることができていたのでしょうか・・?!
幸せを感じている時、人には未来が見えるような気がします。お金に余裕があったり夢や希望を持ち高揚感があるからでしょう。明日はこうなるはずだと予想できる「感じ」があります。
しかし、これはあくまで予想とか予測ということで、「未来が見える」と言うこととは全然違うことです。今このような状況だから未来はこうなるかも知れない・・と「考えて」いるということだけのことです。
人生は予測不可能だということは、誰でもが知っているはずですが、所謂「幸せな時」は人間はそれほど意識的ではないので、この「人生予測不可能」という事実を忘れている・・というより曖昧なボーッとした意識のなかに放っておいている・・と言った方が良いかもしれません。
釈尊は、この世のことをサンサーラ(夢見・幻想の世界)と言いました。
うたかたの眠りの中で、夢を見続け、勘違い思い違い、事実現実から目を離し続けている迷える私たち衆生の生き様を表現した言葉です。
要するに、そもそもの最初から「未来を見る」と言うことは全くの不可能であって、未来に実際何が起こるのかは実のところ解らない・・というのが事実ということです。
私たちにとって災害、不幸などあまり歓迎したいものではありません。
しかし、このような絶望的な状況に直面した時には、所謂「幸福」だった時には観ることのできなかった、私たちが生きている本当の現実・・「あるがまま」が観えてくるということもあります。
明日があるように見えたあの時には見えなかった、「先のことはわからない」という事実、真理が目の当たりにされるのです。今までは何となく未来が見えるような気がしていて、今住んでいる家、そして家族、仕事や恋人、友人知人等々・・いつまでも今と同じように在り続けるのだと(心の深いところでは現実を知りつつも敢えてそれを見ることもせず)・・あたかも人生や未来は自分にコントロールできるものであるかの如く・・ただただなんとなく思っていた・・が、しかしそれは大いなる勘違いであった・・!という本当のことに気がつきます。
この世界は不確かであり、変化流転し続けるものであるということ・・。
そしてそれは吾々の期待や希望など一切意に介さないものであるということ。
よほどの明晰さがない限り、所謂、幸福感に酔いしれ、眠りこけている状態(良い夢を見ている状態)では今ここにある真理を知ることは不可能であると先哲、善知識は説いています。
釈尊も生老病死(生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気する苦しみ、死ぬ苦しみ)という諸行無常の現れを通して、覚醒の道を志し、修行の後、光明を得られたわけです。
私たちの生のあるがままの現実を見据えて受け入れることが出来た時、仏教で言う大安心の世界へ第一歩を踏み出すことができるのです。
大震災、原発事故など本当に大変な事が起こってしまいました。
現実この状況で生活を送ることは実に難儀な事であり、不安もいっぱいあることと思います。
しかしながら宗教的な観点をもって、このことを観てみると真理の道を探求する私たちにとっては逆に大いなるチャンスとなる時であるかもしれません。
仏教では古来、一人のものが覚りを得る時、何万もの衆生が救われる・・と言います。
大安心、崩れざる幸せ、至福、涅槃、光明、覚り等々、色々な言葉がありますが、この度のことを吾々の本性である「仏性」に目覚める機会にすることができるのならば、これこそが正に今回の災害を通じて起こってしまった、「悲しみ」「苦しみ」「絶望」などの想いを本当に供養することが出来ると信じております。
今、まさに無意識(眠り)の雲に覆われていた現実、真理と直面し、大いなる理解、覚りを得、大安心、大光明をもって人生を送ることが出来る千載一遇の機会が訪れているのではないでしょうか・・?
南無阿弥陀仏 合掌