浄土真宗のご本尊は、ご承知の通り阿弥陀仏です。
阿弥陀はインドの言葉「アミターユス」または「アミターバ」の音訳で無限の光と無限の命を意味します。
この光と命が吾々の本体であり、仏教ではこれを仏性と言います。
人間のみならず、吾々が住む宇宙、森羅万象すべてはこの無限の光であり、そして無限の生命を持っているということ(勿論、ここでいう生命とはこの世、即ち三次元世界で言う限定的な生命のことではありません)・・。
それはまた大いなる歓喜であり祝祭であるとも言われ、また自由自在に変化発展をしていく智慧であるとも説かれています。
親鸞聖人は教えの中で、この光のことを月や太陽の光を超えた「超日月光」とか「不可思議光」または「智慧光」とか「歓喜光」等、計12通りの呼び方でこの光のことを表現しています。
不可思議光・・考えることの及ばない光ということですが、要するに人知を遙かに超えた光ということになります。
前述の通り、日や月の光を超えているということですが、それはどういう事かというと何ものにも妨げられない・・という性質があると言うことです・・。
一切のものをも貫き、浸透していく・・、どの様な影をも作ることがない光・・
そして森羅万象それぞれ・・もの皆の生命の源、チカラとして脈動しつづけています。
この不可思議光・・身近にこれを感じる事、これはさほど難しいことではありません。
例えば、心が安らかな、ふとした時、今ここにある自分の身体の働きを感じると、この身体というものも実に不可思議で人知の及ばない営みをしているものだなあと感動します。
何となくこの身体も自分の意のまま、コントロールをして生きているような錯覚を持つことも多いですが、よくよくこれを観、感じてみると本当に「不可思議光」が働き続けていることに気がつきます。
意識して、努力をして呼吸をしているわけでもなく、がんばって心臓を動かしているわけでもない・・!
何かを食べれば(何かを食べたいと思いそれを食べると言うことでさえ不思議ですが・・)それが胃に入り、自動的に消化され、身体に必要なものとそうでないものに分別されて前者は栄養になり、後者は排泄される。
その間、私たちは何もしていないわけです・・!実に実に不可思議です!!
生命がそのポテンシャルを最高に発揮し、維持されるように最善のシステムが最善の方法で、ありとあらゆる事をし続けている・・。
自然の奇跡、人知を超えた叡智が、”今まさにこの瞬間”起き続けているというわけです。
身体一つをとってみても、こういった不可思議な働きを感じることが出来た時、自分はすでに途方もない奇跡のような宝物、いくらお金を積んでも買うことの出来ない貴重なものを手に入れていることがわかります。
あるがままの現実を観て感じることが出来た瞬間、「仏の教えだから感謝しよう」とか、「有り難いことだから感謝すべきだ」というような理屈の世界、所謂、虚仮(こけ:仮のもの、嘘)の世界を簡単に離れて、まさに”あるがまま”にある”この不可思議な喜びの世界”に浸ることができます。
この時、感謝は”するもの”ではなく”湧き上がるもの”へと変容することでしょう。
それは、言い方を変えれば、仮のものから真実のものへと昇華する瞬間と言っても良いと思います。
美味しいものを食べた時、自然と喜びが湧き出る如く・・
シンプルに、ただただ喜んで、ありがたいありがたい・・と感じるだけ・・!
真理は勉強して知識を豊富にしたら会得できるというものではありません。
むしろ、頭を空にして、今生きているこの瞬間を味わうという事の中に会得のコツがあるのだなあとつくづく思います。
仏の真理は楽しむものであり、これを生き、この生が与えてくれるすべてを喜び味わうもの・・!
私たちは、生きながら大いなる楽しみを享受できるよう、この命をも与えられているのですね・・。
有り難いことです・・!
合掌 南無阿弥陀仏